お笑いコンビ ”パックンマックン” のボケ担当のパックン。
流暢な日本語でDJやナレーターもこなし、最近では大統領選挙の解説でも注目される存在に。
2021年3月4日 ”徹子の部屋” に出演し、貧しかった少年時代や現在の幸せな家庭についてお話してくれていました。
パックン プロフィール
生年月日 :1970年11月14日(50歳)
出身地:アメリカ コロラド州コロラドスプリングス
最終学歴:ハーバード大学比較宗教学部卒業
元 高IQ集団メンサのアメリカ会員
サイズ:身長184 cm 体重76kg 靴27.5cm
血液型:O型
趣味:床体操、板飛込み、バレーボール、卓球、献血
家族:妻・長男・長女
活動期間:1997年 〜
事務所:ハブ・マーシー
同期:カラテカ・ドランクドラゴンなど
極貧少年時代
パックン1歳 パックン10歳
父親は、空軍の中佐で安定した生活を送っていた。
パックンが6歳の時、父親と母親が別居、7歳の時に離婚。
パックンと姉と母の3人生活になる。
後に姉は父親の方に行き、パックンと母親の二人暮らしとなる。
母親は、就職→失業→就職→失業→就職→失業の繰り返しで金銭的にキツい生活を送っていた。
1食89セント(約100円弱)と決め、家計をやりくりしていた。
10歳
パックン10歳の時、家計を助けるために新聞配達を始める。
15歳までは自転車で配達。
アップダウンのある道で、太ももは競輪選手並みになっていた。
16歳になると自動車免許を取得し、車で440件も配達していた。
家と家の距離があるコロラドでは、いちいちポスト投函してられないので投げて配達。
その結果、『新聞配達筋』(パックン名付け?)が発達したと言う。
30年以上経った今でも退化することなく残っていると。
新聞配達は嫌な思い出ばかりではなかった。
母親も失業中は、新聞配達をしていた。
2人で朝3時に起きて新聞を取りに行き、家で折り込み広告を入れ込み、輪ゴムで留めて、袋に入れる作業を母親と2人で楽しくお喋りしながらやっていた。
一緒に苦労する仲間でもあった。
この頃の新聞配達→学校→部活動→バイトの繰り返しの生活はとても大変だった。
人生で一番苦労した時期だった。
なので、今どんなに辛い仕事をさせられてもチョー楽に感じると。
母が45歳で大学院に
4年大学を卒業し、専業主婦だった母親。
安定した生活を送れるようにと、45歳で教職員免許取得のために大学院に入学。
3年コースを2年で首席で卒業。
パックンは、頑張り屋の母親のことをとても尊敬している。
学校の成績には厳しかった母親
そんな頑張り屋の母親だから、とにかく学校の成績には厳しかった。
パックンが小学3年生の時に1度だけ『C』を取ったことがあった。
それを今だに「Cを取って来たよね〜」と言われる。
中学生の時、母親が
殆どAだったらピザを食べさせてあげるよ。
オールAを取ったら好きなものを何でもいいから食べさせてあげるよ。
外食なんて滅多にできなかったパックンは俄然やる気に!
オールAを取ったパックンが何を食べたかというとピザ🍕
一番食べたかったものは豪華な料理よりもピザだったんです。
そのビザ🍕を目当てに頑張りました。
僕はピザの力でハーバードに入ったんです(笑)
これ以降、パックンはオールAしか取ったことがないという。
パックンママが、今でも言っていることは『Cを取って来た。』ことだけじゃない。
「あなたが欲しい物を与えられなくて、あなたがやりたいことをやらせられなくてごめんね。」
と謝ってくる。
とんでもない、結果オーライだよ。
こんなに強い男に育ったし、充実した人生を送っているよ。
お母さんのお陰だよ。
子どもの頃の苦労がバネになって今は弾んでいるよ。
無一文で来日
ハーバード大学では、グリークラブ(合唱団)に所属し、部長を務めていた。
そのグリークラブがアジアツアー行うことに。
丁度その頃、幼馴染の大親友が福井県で働き始め、親友から「お前も来いよ。」と。
アメリカに帰るための飛行機代だったお金を所持金に日本に残ることにした。
友達の所に居候すればいいと大冒険生活を決め、福井へ。
とりあえず、駅前の交番に行き、近くの英会話学校の場所を尋ねた。
警察官を通して履歴書を出して英会話学校に採用される。
最初、日本人が着物を着ていないことに驚いた。
何かしらの民族衣装を着ているものだと思っていたから。
当時は、福井では英語を喋れる人も少なかった。
そのお陰で日本語が身についたと。
福井の人はとても優しくて、暖かく受け入れてもらった。
日本が第二の故郷となった。
これが東京だったら毎日六本木に通い、すぐにアメリカに帰っていただろう。
家族
演劇畑出身でアマチュアの演出家でもあった父の影響で役者を目指し上京。
美人日本人妻を新宿路上でナンパ
妻:芽衣さん
新宿で路上ライブをやっていた。
200〜300人がすぐに集まる人気ぶりだった。
ライブが終わり、客席を見るとメチャクチャ可愛い女の子を発見😍 。
マックンのけしかけもあり、声をかけた。
パックン「どうだった?」
芽衣さん「何が?」
パックン「パックンマックンのライブ」
芽衣さん「いや見てないよ。パックンマックン?誰?知らな〜い。」
芽衣さんの冷たい態度がパックンの心を更にくすぐった。
「お茶でもどうですか。」と誘い、何回かデートはしたが、1年くらい着信拒否される。
その後、再会し、同棲。
4年後に結婚。
国際結婚をしたかったんです。
妻(日本人)は、主語なしで喋るから食い違いもあって面白いです。
最初、奥様のご両親からは、外国人という理由で猛反対されたと。
子供たちは日米ネイティブスピーカー
家での会話は、パックンは基本英語。
芽衣さんは、日本語。
パックンと芽衣さんの会話は都合のいい言語で喋っている。
2人の子どもは、日本語も英語もネイティブスピーカー。
アメリカの祖父母とは英語で、日本の祖父母とは日本語で話せることが大事。
そうなるように育てた。
子どもらには、僕には無い英語と日本語をすぐに切り替えられるバイリンガルの力があるんです。
父親としての心がけ
お金に苦労して来たパックンだけに子どもたちには金銭感覚をしっかり持つように教育している。
数年前、子どもが家の物を壊した時があった。
パックン「おい、壊しただろう?」
子ども「また買えばいいじゃん。」
パックン「金は天から降ってくるもんじゃないよ。」😤
お金は、苦労して手に入れるもの、大事に使うもの。
お金の価値がわからないと使った時の喜びもわからない。
あって当然ではない。
ものが無い人の気持ちがわかる人になって欲しいですね。
逆境力
少年時代の苦労のお陰で今の自分がある。
新聞配達筋も付いたが、努力筋も付いた。
頑張れる男になった。
貧しかった時の金銭感覚は今だに残っている。
例えば、靴下は同じ色の同じ物をまとめて買うことにしている。
片方が破けても無くなっても全部の靴下が同じ物だから組み合わせができるから経済的。
僕の人生は経済的の組み合わせです。
逆境から得られるものは多いです。
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